ほうほう、こんなことだったですね。
たいぶ昔に習ったことだから忘れてしまっていました。
唐(8世紀初頭?)
玄宗712年(先天元年)、李隆基は睿宗から譲位され、即位して玄宗皇帝となった。翌年、太平公主を殺し、完全に権力を掌握した。玄宗の治世の前半は開元の治と謳われ、唐の絶頂期となった。この時期、唐の勢威は中央アジアのオアシス都市群にまで及んだが、751年にトランスオクシアナの支配権をめぐってアッバース朝との間に起こったタラス河畔の戦いには敗れた。
玄宗は、長い治世の後半には楊貴妃を溺愛して政治への意欲を失い、宰相李林甫、ついで貴妃の一族楊国忠の専横を許した。楊国忠は、玄宗と楊貴妃に寵愛されていた節度使の安禄山と対立し、危険を感じた安禄山は755年に反乱を起こした。節度使は玄宗の時代に作られたもので、辺境に駐留する将軍に行政権も与える制度である。北方三州の節度使を兼ねて大軍を握っていた安禄山は、たちまち華北を席巻し、洛陽を陥落させて大燕皇帝と称した。
都の長安も占領され、玄宗は蜀に逃亡、その途中で反乱の原因を作ったとして楊貴妃と楊国忠は誅殺された。失意の玄宗は譲位し、皇太子が粛宗として即位した。唐は名将郭子儀らの活躍や回鶻(ウイグル)の援軍(皇太子葉護ら)によって、763年に辛うじて乱を鎮圧した。9年に及んだこの反乱は、安禄山と、その死後乱を主導した配下の史思明の名をとって安史の乱と呼ばれる。
安史の乱によって、唐の国威は大きく傷付いた。反乱鎮圧に大きな役割を果たした回鶻(ウイグル)には外交上の優位を許し、交易でも主導権を奪われて多くの財貨が漠北へと運ばれた。この大幅な貿易赤字は唐の財政を悪化させた。
また、反乱軍の将軍を味方に引き入れるため節度使に任命していった結果、辺境だけでなく本国内にまで節度使が置かれるようになった。彼ら地方の節度使は、乱の後も小王に等しい権力を保持し続けた(「河朔三鎮」)。
各地に小軍事政権(藩鎮)が割拠する状態は、後の五代十国時代まで続き、戦乱の原因となった。
以降、唐は次第に傾いていく。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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